【生き方特集 2】玉置妙憂さん ただ、寄り添う。
最近、テレビなどでも見かける優しそうな剃髪した女性。それが「看護師僧侶」玉置妙憂さん。 がんの夫を看取り、仏門に入り、僧侶への道に進んだ玉置さんが語るのは介護や看取りに苦しむ人たちに向けた「ただ、寄り添う」といった優しく力強い言葉の数々でした。
玉置妙憂(たまおき みょうゆう)
あなたはそこにいるだけでいい大切な人の命の終わりにどんな決断をしても人は必ず後悔するものです
看護師、看護教員、ケアマネジャー、僧侶。玉置妙憂さんの肩書はその波乱万丈な人生を物語っています。法律事務所で働いていたところ、長男が重度のアレルギーになり、「息子専属の看護師になろう」と決意。看護師・看護教員の資格を取って、病院に勤務。今度はカメラマンだった夫のがんが再発。「積極的な治療はしない」という本人の意志を尊重し、夫の「自然死」を看取った。その死にざまがあまりに美しかったことから開眼し、出家。高野山真言宗にて修行に励み僧侶に……。
テレビや講演会、著書で玉置妙憂さんが語るのは「大切な人の命の終わりにどう関わるのか」ということ。看取る側の立場に立ってお話をしてくれます。
よい、悪いを決めるのは 「自分の物差し」だけ。
日本は世界有数の長寿国、昔だったら大往生だと言われた年齢になっても、元気な人たちがたくさんいます。でもたとえ90歳、100歳と長生きをしてくれても、「大切な人の命の終わり」を迎えるのはとてもつらいものです。
また日本人の2人に1人はがんになり、3人に1人はがんで死ぬという時代です。大切な人が思っていたよりも早く「命の終わり」を迎える。そんな厳しい現実に直面する人も多いでしょう。
この世に存在するすべての生きものに「命の終わり」は必ずやってきます。でも心は、なかなかそれを受け入れることができません。そこで人は悩みます。
「大切な人の命の終わりにさいして、自分は何ができるのか」
「できるだけよい看取りをするには、どうすればいいのか」と。
「看取り」に正解はなく、「よい死に方」も「悪い死に方」もありません。よい、悪いを決めるのは「自分の物差し」だけ。そして看取るあなたにできるのは、大切な人に「ただ、寄り添う」ことだけ。
では看取りのお話をするときによく私が話す、本来の意味のスピリチュアル、そしてスピリチュアルペインに関してお伝えしていきますね。
コップの水をイメージしてください。たとえばコップの底のほうの水がドロドロの状態だったら、コップの表面の水も清潔であるはずがありません。
WHO(世界保健機関)は「体と心、社会、そしてスピリチュアルの4つが健全であれば、健康だ」と言っています。人間が持って生まれた根源的なもの、それがスピリチュアルだと私は解釈しています。確かにそこにはある。でもふだんは見えないもの、意識していないのがスピリチュアルです。たとえばコップの水をイメージしてください。その水にフーッと強く息を吹きかけると、表面の水は少し揺れますよね。これが心です。でもコップの底のほうの水は、息を吹きかけるぐらいでは微動だにしません。これがスピリチュアルです。心はスピリチュアルに支えられているからです。たとえばコップの底のほうの水がドロドロの状態だったら、コップの表面の水も清潔であるはずがありません。たとえばコップの上澄みは透明に見えても、コップ本体が動かされるような出来事があったら、底にあるドロドロとしたものが浮き上がってくるでしょう。
「なぜ人は生まれてきたのか」「自分は何のために生きるのか」「なぜ死ぬのに、こんなに苦しい思いをしなければいけないのか」「他人の世話になってまで、どうして生きているのか」。
そんな自分の存在に関わるようなモヤモヤとした思いをスピリチュアルペインと呼んでいます。
命の限りを見たとき、意識したとき、人はスピリチュアルペインを感じるのです。
ではふだんは存在することさえ意識していないスピリチュアルの痛み、スピリチュアルペインはどんなときに感じるのでしょうか?
それは「命の限りを見たとき、意識したとき」です。たとえばがんで余命宣告を受けたとき、家族が大病をしたとき、大きな災害や事故で人の死を目の当たりにしたときなど。「人の命はいとも簡単に失われる」「こんなにむざむざと奪われるものなのだ」という状況に自分が直面すると、「何のために生まれてきたのだろう」「生きる意味って、何だろう」という思いが、わーっとあふれてくるのです。
スピリチュアルペインを抱えて、悩み、苦しむことによって、人としての次元が上昇するのだと思います。
たとえば大震災や今のコロナ禍など未曾有の出来事が発生すると、直接の被害を受けなくても、価値観や生き方が変わったという人が多くいます。ふだんは心よりもうんと奥の方にあったスピリチュアルの箱のふたが開いたからでしょう。
ふだん私たちがスピリチュアルペインを感じないのは、人間の本能だと思います。なぜかというと「なぜ生まれてきたのか」という根源的な問いには誰も答えようがないからです。
私たち人間は、いつかはスピリチュアルペインと向き合うように定まっている。そしてスピリチュアルペインを抱えて、悩み、苦しむことによって、人としての次元が上昇するのだと思います。
愚痴や悪口を聞くのは30分だけ、その間は傾聴に徹してください。ただ寄り添って聴くだけです。
スピリチュアルペインという難しい話を先にしてしまいましたが、(介護の現場など)相手の話を聞くという意味では、高齢者の愚痴や悪口の対策としては、ただただ話を聞く、傾聴で対処しましょう。とはいえしんどくなるものです。そういうときは「30分間だけ相手の話を黙って聞く」と決めるとよいでしょう。その代わり、その30分は「そんなこと言ったって…」「それはおかしいよ」などと言い返してはダメ。聞くと決めたらしっかり聞く。途中でイヤになっても、その30分間はまるっと話を聞いてあげましょう。それが傾聴ということです。
アドバイスする必要はありません。ましてや「何か役に立つことを言ってあげないと」なんて 思う必要もありません。
あなたの友人がスピリチュアルペインを抱えていて、あなたにその思いを話したいという場合も、やはり傾聴してあげましょう。「こんなことがあって、こんなことがつらくて…」と話す友人に対して、「そういうときは、こうすればいいのよ」なんてアドバイスする必要はありません。ましてや「何か役に立つことを言ってあげないと」なんて思う必要もありません。友人のあなたを選んだのは、ただ聞いてもらいたいからです。ものをたずねられたら、答えを返してあげたいと本能的に思うものです。でもそこはぐっと我慢して、傾聴に徹しましょう。
「自利をもって、利他に励め」、まずは自分を満たす。自分自身がハッピーであるようにまず自分自身をケアすることが先。他人のケアはその後にするものです。
他人のケアをするためには、自分のケアをきちんとして、まず自分の心を満たしてあげることが必須なのです。
仏教には「自利」「利他」という言葉があります。「自利」というのは自分を活かす、「利他」というのは他人を活かす、思いやるという意味です。そして「自利をもって、利他に励め」とお釈迦さまは言っています。この「二利が回る」ことで、世の中はうまくいくと言うのです。
これは仕事、家事などすべてのことに当てはまりますが、とくに介護や看取りの現場では非常に大事なことです。しかも長期に渡る介護は「自分のことを後回し」では到底乗り切れません。「自分さえ我慢すればいい」と最初のうちは思っていても、やがて「どうして自分ばっかり」となり、「もうすべて投げ出したい」「どうせ助からないのなら、早く逝ってほしい」という気持ちが湧いてきて、看取った後に後悔ばかり……なんてことになりかねません。
他人のケアをするためには、自分のケアをきちんとして、まず自分の心を満たしてあげることが必須なのです。
生き死にの問題では「いい」のか「悪い」のかなんて本当のところは誰にもわかりません。
選択に迷いはつきものです。私たちは「悪い」よりも「いい」方がいい。少しでも「いい」方を選びたいと思うものです。
グレーはグレーのまま、ゴックンと飲み込む度量が必要です。「自分の選択はあれで正しかったのか」という後悔の気持ちが湧いてきたら、「あれで正解だった」と何度も何度も自分に言い聞かせ、そう思い込んでください。
天は彼の人がもう働かなくてもよいように病と老いをもたらし、彼の人をもう休ませるために死を持ってくるのです。
もしも大切な人を亡くしたら、悲しみの穴にドボンと落ちるもの。穴に落ちたら無理せずとことん沈み切ろう。穴の底まで落ち切ったら、はい上がれます。